VTuber卒業という“終わり方”の再設計3:断絶から選択――記憶の持続へ
2025年10月10日
3個目の記事です。
前の記事はこちらからご確認ください。
1章~2章はこちら
3章~4章はこちら
第5章 「卒業」という制度の再設計――断絶から選択へ
これまでの章で書いてきたように、VTuberの卒業は「企業」「ファン」「本人」という三者の間で異なる意味を持っています。
企業にとってはブランドの統制装置、ファンにとっては共同儀礼、本人にとってはアイデンティティの切断と再構築。
この三者の利害が衝突する点こそ、卒業という制度が抱える構造的な矛盾の核心です。
だが、VTuber産業の成熟とともに、これまで“断絶”を前提としていた制度設計そのものが変化を迫られています。
卒業は「終わる」ではなく、「選ぶ」ものへ――ここではその再設計の方向性を整理してみます。
第一に求められるのは、「卒業理由と後続選択の多様化」です。
現状、VTuber事務所の卒業は一律に「契約終了」として処理され、結果として“消える”か“転生する”の二択に集約されています。
しかし、活動停止・休養・独立・移籍・引退など、実態はもっと多様であり、それぞれに適した制度が必要です。
たとえば「活動休止」には復帰前提の契約形態を、「独立」には権利移転を伴うライセンス契約を、「移籍」にはデータ引継ぎを可能にする共有契約を設ける。
このように、企業と演者の関係を“0か100ではない”構造にすることで、卒業という言葉の意味も柔軟化していくでしょう。
第二に、「記録と再利用の制度化」です。
卒業後のアーカイブや過去映像の扱いは、これまで企業裁量に委ねられてきました。
しかしファン文化の成熟により、“公的アーカイブ”としての価値が高まっています。
著作権・肖像権・音楽ライセンスなどの権利整理をあらかじめ共通フォーマット化し、卒業後も一定の形で参照できる「公式データベース」や「記念ライブラリ」を設けることが望ましいです。
企業が所有するデータを単なる商材ではなく文化資産として再構成する発想が必要です。
第三に、「再会のデザイン」です。
卒業後の再登場を禁じること自体が目的ではなく、どのような形なら文化的・法的に安全かを設計することが重要です。
たとえば、周年記念や箱全体の歴史展示などで、過去メンバーのシルエットや象徴的フレーズを引用する、あるいはAIによるモーションリプレイを使って“姿なき出演”を実現するなど、物語世界を壊さない範囲での再接続が可能です。
実際、音楽業界では「AIリマスター」や「ホログラムライブ」といった形で故人アーティストの再演が社会的に受け入れられつつあります。
VTuberでも、演出上の「帰還」が文化的成熟を示す段階に到達しつつあります。
第四に、「契約透明性と当事者主権の確立」です。
卒業をめぐる混乱の多くは、ファンや本人が“どの範囲で権利が残るのか”を知らされていないことに起因しています。
今後は、活動開始時から契約書に「卒業後の映像・名前・モデルの使用可否」「データ保存期間」「再登場条件」などを明記することが不可欠になります。
タレントが自分の将来を自分で設計できる契約――いわば「ライフサイクル契約」が、次世代VTuberの基本形になると考えられます。
最後に、制度の中心に据えるべきは“記憶の尊重”です。
VTuberはフィクションでありながら、人間の時間を共有する存在です。
そのため、卒業の制度は法律でもマーケティングでもなく、文化の設計として理解する必要があります。
ファンが見送り、企業が記録し、本人が次を選ぶ――その三者の選択が揃ったとき、卒業は単なる終わりではなく、共同体の更新として成立する。
これが、断絶から選択へという制度転換の核心だと思うのです。
第6章 VTuber卒業文化の未来――物語の寿命と記憶の持続
卒業という言葉は、もともと「学びを終える」ことを意味しました。
しかしVTuberにおける卒業は、むしろ“次の物語への入り口”です。
それは終わりでありながら、他の誰かの始まりであり、箱という集合体の成長過程でもあります。
この文化がここまで定着したのは、VTuberという存在が「リアルとフィクションの狭間で生きる人格」だからでしょう。現実の人間が演じるフィクションとしてのキャラクターが、社会の中で現実の関係性を築く――その中間領域にこそ、この文化の生命線があります。
今後、VTuber産業が成熟するにつれ、卒業の形もさらに 多様化していくでしょう。
すでに「卒業=引退」という構造は崩れつつあり、
① 別名義での独立継続(例:周防パトラの独立)
② 同一名義での他社移籍(例:小森めとの移籍)
③ 一時休止・再登場(例:活動停止後の復帰ケース)
④ 物語的な死と再生(例:作品演出としての卒業)
など、多様な“生き方”が現れています。
これらはいずれも「卒業をどう物語として描くか」の選択です。卒業が制度から表現へと変化しつつあるとも言えます。
文化的に見れば、VTuberの卒業は“デジタル時代の神話生成”とも言えます。
ファンは記録を通じて神話を継承し、企業はその神話を再利用し、本人はその神話を超えて次を生きる。それは現代の宗教的儀礼に似た構造を持ちます。
供養、祭壇、追悼、記録、そして再演。
ホロライブやにじさんじの卒業配信がしばしば“儀式”として扱われるのは、この宗教的形式を自然に内包しているからでしょう。
経済的観点から見ても、卒業は「ブランドの再起動」でもあります。
卒業記念グッズやボイス、記念ライブは高い収益を生む一方で、ファンの心理的満足を支える重要な出口施策でもあります。
これを単なる“消費の終端”ではなく“物語の循環”として再定義すれば、ファンと企業の関係はより持続的になります。
すでにアニメ・アイドル業界では「卒業コンサート」や「ファイナルアルバム」が半ば文化的儀礼化しており、VTuberも同じ文脈の中に位置づけられつつあります。
最後に、この文化の未来を支える鍵は「保存」と「引用」です。
卒業をめぐるデータをどのように残し、どのように次の世代が参照するか。
ホロライブやにじさんじが公式年表やデジタルアーカイブの構築を進めているのは、単なるブランド管理ではなく、文化保存の一形態です。
ファンがタグで記録し、企業がそれを再編集し、本人が自らの過去を再利用できる社会――そのとき、卒業はもはや終わりではなく、創作の循環の一部になります。
“卒業は永遠の別れではなく、記憶の更新である”
これが今後のVTuber時代を象徴するキーフレーズになるかもしれません。
卒業という制度は、やがて選択可能な形式となり、ファン・企業・本人の三者がそれぞれの「物語の終わらせ方」を選べるようになるでしょう。
その日、VTuber文化はようやく「終わりを設計できる産業」へと成熟するのです。
第7章 総括:VTuber卒業はどこへ向かうのか――制度・文化・感情の交差点としての“終わり方”
VTuberの卒業という制度は、いまや一つの文化圏を形成しています。
そこでは、企業がブランドを守り、ファンが記憶を編み、本人が自由を選ぶ。
三者の思惑がそれぞれ独立しながらも、互いに干渉し合うことで、独特の“終わりの物語”が作られてきました。
本稿ではその構造を、法的・経済的・心理的・文化的な側面から見てきました。
結論として、VTuber卒業は「契約の終わり」から「関係の再構築」へと進化しつつあります。
まず、法制度の側面では、人格の同一性とキャラクターの分離という前提がもはや持続しなくなっています。
中の人とキャラクターの境界は曖昧化し、ファンも社会も両者を連続した存在として理解しています。
そのため、卒業という断絶の演出は現実との乖離を拡大しつつあります。
企業はこの齟齬を「世界観の維持」という形で吸収し ていますが、やがて法的現実に合わせた契約設計への更新を迫られるでしょう。
特に、人格権・芸名・著作権・肖像権が交錯する現状では、旧来の芸能契約をそのまま適用することの限界が明らかになっています。
次に、文化的側面から見れば、卒業は「共同体の更新装置」として機能しています。
卒業イベントやコメント紹介、記念グッズは、ファンにとって“別れを経験する”と同時に“箱の物語を継ぐ”儀礼です。
この構造はアイドル文化や宗教儀礼と類似しており、VTuberの卒業が単なるエンタメ現象ではなく、共同体のアイデンティティを再構築する社会的機能を持つことを示しています。
今後は、ファンの共同制作(ファンアーカイブ・供養タグ・年表プロジェクトなど)が、企業の公式 活動と並ぶ「文化的保存装置」として重みを増していくでしょう。
経済的側面では、卒業は事業の出口施策であると同時に、新しい顧客循環の入口でもあります。
卒業イベント・ボイス・メモリアルグッズは、単なる最終販売ではなく、ファンの“感情的納得”を経済的価値に変換する仕組みです。
この循環が成立する限り、卒業は企業にとってもリスクではなくブランドの成長点になります。
問題は、この商業的サイクルが過剰化すると、“別れの消費”が常態化する危険があるということです。
だからこそ、卒業を「演出の強化」ではなく「制度の再設計」として見直す必要があります。
心理的側面では、卒業は“喪失”と“継続”の間で揺れる体験です。
ファンにとっては失われた日常の再定義、本人にとっては役割の再構築、企業にとっては世界観の再編。
この三つの「再〜」が同時に進行することが、VTuber卒業を他のジャンルにはない複雑な現象にしています。
いま必要なのは、このプロセスを透明化し、ファン・企業・本人がそれぞれの立場から“何を得て何を失うのか”を共有できる制度設計です。
卒業とは、終わりを管理することではなく、記憶の扱い方を選ぶこと。
その意識転換が、文化の成熟を促すと思います。
未来のVTuber産業においては、卒業は次のような三段階構造に再定義されていくと考えられます。
①終了としての卒業:契約終了、活動停止、法的整理。
②記録としての卒業:公式アーカイブ、年表、ドキュメントの維持公開。
③選択としての卒業:独立・移籍・転生・再演などの次のフェーズ。
この三段階を明示することで、卒業は不安の源ではなく、希望の構造へと転化します。
断絶ではなく、段階。終わりではなく、設計。
VTuberの卒業文化は、いままさに“終わり方を選べる時代”への入り口に立っています。
結局のところ、VTuberの卒業とは「誰が物語を終わらせるか」という問いです。
企業が終わらせるのか、本人が終わらせるのか、それともファンが終わらせるのか。
これまでの時代は企業が主導していましたが、今後はその主導権が三者の間で分散していくでしょう。
そのとき、“卒業”という言葉は、もはや断絶を意味しなくなると思います。しかし代わりに、“選ばれた終わり方”という新しい表現が生まれるはずです。
ホロライブとにじさんじという二大プラットフォームが異なる方向から示したのは、「終わり方にも思想がある」ということ。
そして、ファンがそれを受け止め、記録し、語り継ぐ限り――卒業は消滅ではなく、文化の証明であり続けるでしょう。
第8章 蛇足「推しは推せるときに推せ」 ――儚さを受け入れる文化としてのVTuber卒業
VTuber文化を象徴する言葉の一つに、「推しは推せるときに推せ」という名言があります。
この言葉は単なるスローガンではなく、VTuberという存在が抱える時間的脆さ、そしてファンコミュニティの成熟した死生観を端的に表現しています。
なぜなら、VTuberの活動は、永続性を前提としていないからです。
彼らの世界は、契約・技術・健康・人間関係・時代の変化といった、無数の条件によって支えられており、そのいずれかが崩れるだけで“日常”が終わる可能性を常に孕んでいます。
「推せるときに推せ」という言葉には、その不確実性を前提とした“文化的リアリズム”が宿っています。
この言葉が強い共感を呼ぶのは、VTuberという存在が「永続するキャラクター」ではなく、「有限の時間をともに過ごす人間」だからです。
アイドルや俳優の引退にも似た現象ですが、VTuberの場合はその終わりが突発的であるほど、ファンの記憶は強く結晶化します。
ファンは推しの活動を“消費”しているのではなく、“共有している”のです。
その共有が突然途切れる可能性を理解しているからこそ、「今この瞬間を大切にする」という態度が倫理のように語られる。
それが「推せるときに推せ」という文化の本質です。
このフレーズが象徴的なのは、VTuberの卒業文化と不可分である点にあります。
卒業とは、推しの時間が有限であることを可視化する儀式です。
ファンが「いつか終わる」と知りながらも、それを日々の喜びとして受け止める構造は、まさに“推す”という行為の哲学的完成形とも言えるでしょう。
ホロライブの卒業配信が「ありがとう」で終わるのも、にじさんじの卒業コメント紹介が「またどこかで」と締めくくられるのも、この思想の延長線上にあります。
それは悲しみではなく、物語を共有できたことへの感謝の儀式なのです。
「推しは推せるときに推せ」という言葉は、同時にファンと企業の関係にも影響を与えています。企業はこの“限られた時間の価値”を理解し、アーカイブ・グッズ・ボイス・記念企画などで“時間を保存する仕組み”を作り出してきました。
そしてファンは、それを「消費」ではなく「記録への参加」として受け止めています。卒業という終わりを、ファンの感情と企業の経済をつなぐ場として成立させているのは、この言葉が内包する“今を生きる倫理”です。
言い換えれば、VTuberの卒業文化は「有限性の自覚」に支えられた幸福論なのです。
この言葉を別の角度から見れば、VTuberの存在そのものが“無常の表現”であることにも気づかされます。
アバターも声もプラットフォームも、全ては流動的で、いつでも変わり得る。
しかしその中で、たしかに“いま”を共有できたという事実だけが残る。
それを尊び、形に残すことが「推し続ける」という行為の本質です。
卒業が悲しいのではなく、卒業があるからこそ「推す」行為に意味が生まれる。
それがこの文化を支える最大の逆説です。
つまり、「推しは推せるときに推せ」とは、VTuber卒業文化の“哲学的な中核”でもあります。それは、終わりを恐れずに、終わりの存在を前提として生きることを肯定する言葉です。法や制度がどう変わっても、ファンとタレントの関係を駆動しているのはこの思想であり、企業がどれほど構造を整備しても、最後に文化を形づくるのは「推す人々の時間の使い方」なのです。
卒業を制度として整えることも、記録を残すことも、最終的にはこの言葉の延長にあります。
だからこそ――
卒業という儀式の本質は、別れではなく、「いまを生き切る」という共有の確認にあるのです。
Digital Memorialization in Online Fandoms(Media Studies Quarterly, 2024)
V-Tuber Industry Market Analysis Report 2025(Kadokawa Research)
PR TIMES「にじさんじ卒業関連イベント」
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000719.000030865.html
COVER株式会社 公式年表サイト「hololive history」
https://hololivepro.com/history/
Kawaii Production「Reboot Project」
NHK文化研究所「デジタル時代のアイドル儀礼」
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/
日本経済新聞「VTuber事務所の契約・権利構造」
立命館大学 情報社会学部論文「卒業文化と共同体儀礼としてのVTuber」
https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/records/9876
COVER株式会社・ANYCOLOR株式会社 IR資料(2025年3月期)
https://cover-corp.com/ir/
https://www.anycolor.co.jp/ir







