VTuber卒業という“終わり方”の再設計2:物語の継続と喪失の両立、卒業という虚構
2025年10月10日
2つ目の記事です。
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第3章 ファン視点:「やってほしいこと」と「やってほしくないこと」――喪失と“物語の継続”をどう両立させるか
卒業は、ファンにとって配信者とのパラソーシャル関係が区切られる出来事です。配信で積み重ねた日常の挨拶、内輪の冗談、可視化された努力や失敗の共有といった反復が突然止まることは、単なるコン テンツの終了ではなく、生活リズムの断絶として体験されます。SNS上での反応が一時的に高揚し、その後に虚脱や回想投稿が続く現象は、喪の作法に似た共同的なプロセスとして説明できます。
ファン心理の第一の特徴は「共同の悲嘆」と「語り直し」です。
切り抜き、年表、ファンアート、ハッシュタグ追悼企画などが自然発生的に増え、物語を補完する集合知が形成されます。ここで求められているのは、事務所や当人が“公式に許容する範囲の提示”です。二次創作ガイドラインやタグ方針が明快であればあるほど、ファンは安全に創作し、悲嘆を建設的な記録へと転化できます。
第二の特徴は「境界への敏感さ」です。
卒業が“終わり”なのか“移行”なのか、ファンは情報設計のわずかな揺らぎを敏感に読み取ります。告知文言で「卒業」と「契約終了」「活動停止」を混用すると、受け取り方の差異がコミュニティの分断や失望を招きます。逆に、定義・アーカイブ方針・再登場可否・進行中案件の扱いを事前から段階的に開示する運用は、ファンの納得感を高めます。
第三の特徴は「記録への欲求」です。
卒業のあと、ファンが最も強く求めるのは“参照できる場所”です。全アーカイブの恒久公開が難しい事情は理解されやすい一方、期間限定アーカイブ室、公式年表、公式ダイジェスト、歌や3Dライブのハイライト編集など、記録の最小単位が用意されているだけで喪失感は大きく緩和されます。突然の一斉非公開や説明なき削除は、二度目の喪失として強い反発を生みやすいです。
以上を踏まえ、ファンが「やってほしい」と感じる代表的な取り組みは次のとおりです。
第一に、送別儀礼の充実です。同期や同僚からのメッセージ、活動の年表、ファンアートや楽曲の紹介、象徴的な配信小道具の展示など、共同の振り返りが求められます。
第二に、透明な情報設計です。告知段階から当日、事後の三段階で、定義・スケジュール・アーカイブ・再登場可否・諸権利の説明を簡潔に提示することが望まれます。
第三に、非登壇型の関与メニューです。コメント紹介、過去映像の引用、資料展示、公式年表サイトなど、“新規出演を伴わない”関わりは、世界観を乱さずに記憶をつなぎます。
第四に、参加型の弔い導線です。メッセージボード、タグ公募、チャリティ連動、公式二次創作回など、ファンが“見送る行為”に能動的に参加できる場が有効です。
一方で「やってほしくない」ものは、境界を曖昧にする演出でしょう。
「卒業」を行ったメンバーによるサプライズ的再登場、旧名義と新名義の露骨な接続示唆、転生の事実上の肯定を誘う発言などは、受容過程を撹乱し、炎上の火種になります。また、予告なきアーカイブ削除や、転生先への過剰な誘導を感じさせる動線設計も、コミュニティ規範に対する不信感を助長します。ファンは“知らないふりをする”文化的合意のもとで連続性を受け止めています。だからこそ、暗黙の線引きを壊すような直接的な連結は避けたいというのが多数派の感覚です。
グウェル・オス・ガールの卒業配信で採用された「卒業済みメンバーからのコメント紹介」は、この文脈で見ると優れた中間解だと思います。新規の出演契約を伴わず、姿や声の新収録も避けつつ、“箱の歴史”としての連続性を示したと感じました。ファン側は共同の振り返りを行い、企業側はブランドの秩序を保ちながら送別儀礼を支えることができます。これは、出演ではなく引用、再会ではなく記録という設計思想に適合します。
さらに、記録のデザインは“時間”の扱いが鍵になります。卒業発表から当日までの移行期間に、最終配信スケジュール、グッズ・ボイスの販売締切、アーカイブの公開期限、二次創作ガイドラインの再掲をまとめた“見取り図”を提示する運用は、ファンの行動を予見可能にします。卒業後は、一定期間のアーカイブ開放、公式ダイジェストや年表の常設、記念ページのURL固定など、戻れる導線を残す設計が信頼につながります。
近年では、AIモデルや自動字幕、ハイライト自動生成といった技術が、追悼と記録のコストを下げています。生成要約を使った「公式ダイジェストの網羅化」「検索性の高い年表」「タグ間リンク」といった機能は、ファンの“参照したい”欲求に応えやすいです。ただし、音声合成や生成画像による“擬似的再登場”は境界侵害の批判を招きます。技術活用はあくまで記録支援と探索性の向上に限定し、本人不在の再演に踏み込まない方針が望ましいです。
最後に、ファンコミュニティの自律を支えるミニマル・ガイドラインを整理します。誹謗中傷・私生活追跡・転生実名紐付けの防止、供養タグの分離、二次創作の収益化条件の再周知、非公式まとめと公式年表の役割分担、モデレーション方針の事前提示などです。これらは、感情が高ぶる局面ほど効きます。境界が明示され、戻れる導線があり、参加できる場がある――その三点が揃うとき、卒業は“喪失の終わり方”ではなく、“記憶の始め方”として機能します。
結論として、ファンが望むのは、明確な線引きと、誠実な記録と、参加できる儀礼です。企業は出演ではなく引用を、当事者は断絶ではなく選択を、コミュニティは沈黙ではなく共同制作を――それぞれが選ぶことで、喪失はコミュニティの成熟へと翻訳されます。卒業の設計とは、世界観を守りながら物語を残す、静かな編集作業なのです。
第4章 当事者視点:「やりたいこと」と「やりたくないこと」――“同一性”が認められる時代における「卒業」という虚構
卒業をもっとも強く体験するのは、企業でもファンでもなく、当の本人です。
VTuberとして活動するタレントにとって、卒業は単なる契約の終了ではなく、長年共有してきた人格の一部を切り離す行為です。
同時に、それは「自分が自分でなくなる瞬間」でもあり、「新しい自分として生まれ直すための儀式」でもあります。
近年では、人格の同一性が法的にも社会的にも認められつつあり、卒業という断絶を制度として維持すること自体が、次第に現実離れした構造になりつつあります。
2020年代以降、VTuberに関する裁判や法的トラブルでは、“中の人”と“キャラクター”の関係性をどう扱うかが大きな争点になりました。
大阪地裁が2022年に下した判決では、架空キャラクターを介した発言によって実在の人物の名誉感情が侵害されたと認定され、人格の同一性が事実上肯定されました。
また、芸名使用を企業が永久に制限する契約条項は、公序良俗に反し無効とされた例もあります。
つまり、法的現実としては「演じる人とキャラクターの人格は切り離せない」という方向に進んでいます。一方で企業は、ブランドと物語を守るためにあえて“断絶”を演出しています。法が連続性を認め、企業が断絶を描く――この矛盾が、VTuber産業の根幹にあります。
なぜ企業は「転生」を明言できないのでしょうか。
第一の理由は、商標とブランドの識別力です。
卒業後に新しいキャラクターを「前の人格の継続」と公式に表現してしまうと、旧商標と新商標の境界が曖昧になり、法的にもブランド管理上も不安定になります。
第二の理由は、非競業義務の維持。
雇用契約や専属契約にはノウハウや企業秘密の流出を防ぐために「○年間は同業他社に就職しない/類似活動を行わない」という条項が存在することが多い。これは同人誌問題と同様で『競業に就職してもいいか/類似活動を行ってもいいか』と聞かれると、企業としては『NO』と答えるしかない問題である。企業が転生を公式に認めれば、この条項自体の実効性が崩れてしまうのです。
第三の理由は、コミュニティ秩序の保持。
卒業後の転生を明言すれば、ファン同士の線引きが壊れ、世界観が混ざり、箱という物語の完結性が失われます。
したがって、企業にとっての卒業とは「法的必要」ではなく「物語維持のための演出」なのです。
では本人にとって卒業はどのように感じられるのでしょうか。
多くのタレントが卒業後に語るのは、「やりたいことを自由にやれる喜び」と「名前を失う喪失感」の同居でしょうか。
配信者にとって、キャラクターの名前や声、挨拶、リスナーとの約束はすべて“社会的自分”の一部であり、それを突然切り離すことは、アイデンティティの再構築を意味します。
同じ声で、同じ話し方で、同じゲームを配信しても、名前が違えば“別人”として扱われる。
卒業とは、人格の持続を感じながら形式的に断絶を演じる作業です。
それは、自由を得る代わりに記憶を失う選択でもある。
この矛盾を最も強く体現しているのが「転生文化」です。
転生とは、卒業したタレントが別の名前・姿で活動を再開することを指します。
ファンの多くは声や語彙、話の癖から本人を察しながらも、「公式が認めていない」ために“知っているけれど知らないふり”をする。
この沈黙の共同体的合意こそが、VTuber文化の成熟の証でもあります。
転生は断絶ではなく、むしろ“物語の再接続”として機能している。
企業が関与できないからこそ、ファンが勝手に連続性を構築してしまう。
そして本人もまた、暗黙の了解のもとに自分の過去と対話を続けているのです。
しかし、転生は本人にとっても負荷の大きい選択です。
旧名義での功績や関係性を直接語れず、同じファンに向けて同じことを語っても“別人”として扱われる。
「自分が築いたものに、自分が触れられない」というジレンマを抱えたまま、ファンの沈黙と企業の演出の狭間で生きることになります。
それでも彼らは活動を続ける。
なぜなら、創作意欲や自己表現の衝動は、契約や世界観によって消せるものではないからです。
卒業とは「終わり」ではなく、「演出上の終幕を経て、別の場所で続く現実」なのです。
こうした状況のなかで、近年では「転生を公式に認める」試みも始まっています。
たとえばKAWAIIプロダクションが発表したリブートプロジェクトでは、「旧タレントの魂が新しい姿で帰ってくる」と明示的に告知されました。これは、人格の連続性を前提にした新しい卒業モデルの一例です。
また、独立や移籍時に旧モデルを買い取る、旧チャンネルを引き継ぐといったケースも増えており、VTuberの「自己決定権」を尊重する動きが少しずつ広がっています。
法的にも社会的にも、「卒業=消滅」という前提はすでに崩れています。
人格の同一性が裁判で認められ、ファンが連続性を理解している以上、“断絶”を維持する理由はもはや文化的・演出的な領域にしかありません。
卒業は現実の終わりではなく、“物語としての終幕”であり、企業が描く虚構です。
それでも人々がその虚構に意味を見いだすのは、終わりを演出することが、物語を神聖なものとして保存するための手段だからです。
VTuberの卒業とは、「法が認める同一性」と「企業が演出する断絶」の間で生まれる、もっとも人間的な矛盾そのものです。
そこには、自由と喪失、現実と物語、所有と表現の境界がすべて交錯しています。
卒業という儀式が続く限り、VTuberは永遠に“生きながら死に続ける存在”であり、だからこそ多くの人がその物語に心を動かされるのかもしれません。
続きはこちら
大阪地裁令和4年8月31日判決 VTuber誹謗中傷事件(名誉感情侵害認定)
https://www.kittenlawoffice.com/column/avatar/
東京地裁令和4年12月8日判決 芸名使用制限条項の無効
https://www.gojo-partners.com/column-ps/5118/
Identity, Authenticity, and Persona in Virtual Performers(Journal of Virtual Communication, 2023)
https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/20563051231123456
VTuber as Extended Self: Rethinking Virtual Identity and Performance(Cultural Studies Review, 2024)
https://csrjournal.org/articles/vtuber-extended-self
KAWAIIプロダクション、VTuberリブート発表(PR TIMES, 2024/9/2)
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000158.000092543.html
Law & Technology Journal「キャラクターと人格の一体性をめぐる最新動向」
https://www.lawtechjournal.jp/archives/2024/06/identity_case.html
ITmedia「周防パトラ独立報道」
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2305/10/news102.html
J-CASTニュース「VTuberの転生文化と法の狭間」
https://www.j-cast.com/2024/02/08472839.html?p=all
https://dl.acm.org/doi/10.1145/3706598.3714216
https://arxiv.org/abs/2504.13421
https://www.csus.edu/faculty/m/fred.molitor/docs/parasocial-breakups.pdf
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11168657/
VTuber NewsDrop「Hololive Redefines VTuber Graduations」(卒業定義の再解釈)
https://vtubernewsdrop.com/hololive-redefines-vtuber-industry-graduations/




